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「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」をみたドラクエ音楽 オタクの雑記

ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」のBGMについて愚痴を言うだけの記事です。

(大いにネタバレあります)

 

 

 

 

 人生の半分以上を共に過ごしてきたドラゴンクエストシリーズの映画化と聞き非常に気分が高揚したのを覚えている。しかし、実際出来上がったものは”虚無”でしかなかった。

ドラクエ5の皮をかぶった何かを見て感情も思考も追いつかないほど頭が真っ白になった。上映が終わった後、他の客の感想を、ため息を、愚痴を聞くのが怖くて足早に映画館から立ち去った。

 

 この映画の何がダメだったかは多くの人々に書かれ尽くされただろうからここでは書かない。駆け足な脚本、キャラの解釈違い、ドラクエに似つかわしくないセリフ選びそしてVR落ち。

長年ドラゴンクエスト5を愛して来たファンを侮辱するための映画、リアルタイムで原作をプレイした人達の悲痛な叫びに胸が痛んだ。

 

 だがしかし、BGMの選曲・使い方については一言行っておかねばならない。

不評しか聞かないこの映画でも、「映像とBGMはよかった」、「オーケストラのBGM最高!」などと書かれることが多いが、BGMに関しても不満しかない。

私はドラクエ音楽とともに生きてきた。ドラクエのおかげでゲーム音楽にはまり作曲を趣味としコンサートに出かけるようになった。

少々信者くさい域に達してしまっていることは十分自認しているが、この映画を見て同じ思いをした人の感情が少しでも和らぐように、私の思いをこの記事に残そうと思う。 

 

 

  

選曲者がドラクエ5をやっていない

 監督や制作の指揮を執る立場の人間が原作のドラクエ5(及び他のRPG作品)をやっていないということの一番の弊害がこの映画におけるドラクエ音楽の使い方に出ている。

まず前提として、ゲーム音楽がそのゲームの場面やストーリーと強く結びついていることを知らないので、曲の雰囲気や尺だけでBGMを選んでしまう。すると原作プレイヤーの視聴者は今見ている映画と原作の場面の食い違いを感じざるを得ず、そこで脳のリソースの多くを使ってしまうため、映像を視覚的に理解する余裕がなくなる。

たとえば「聖(DQ5)」が流れているのに場面が修道院ではなかったり、妖精の村なのに専用BGMの「街角のメロディ(DQ5)」が流れていなかったりして、選曲の意図がつかめず見ていて逐一萎えてしまう。

ドラクエという超メジャーなゲーム作品でしかも5だけではなく他シリーズからも選曲するとなるともっと神経質にBGMと場面のギャップを埋める努力をするべきだった。この点を理解していない(もしくはそんな考慮をする必要性を感じていない)のならもはやゲーム作品の映像化に携わる資格も能力もない。

 

 

同じ曲を流しすぎ

 これは本作品を見た方なら誰でも気が付いただろう。「序曲のマーチ(DQ5)」4回、「高貴なるレクイエム(DQ5)」「不死身の敵に挑む(DQ5)」「敢然と立ち向かう(DQ6)」3回、「哀愁物語(DQ5)」「愛の旋律(DQ5)」2回、などがある。

他のシリーズからも選曲したにもかかわらず、同じ曲を何回もしかも大抵イントロから流されて中途半端なにぶつ切りされるので、曲本来の魅力やここぞという時の迫力が薄れてしまった。

特に序曲の乱用は意味がわからない。最初の序曲はたいして魅力なく奴隷時代の苦悩の重みも感じられない主人公が、「行けばいいんだろ!行けば!」といやいや冒険に出発しするシーンで流れる。唐突に魔法を使ったりビアンカのリボンの存在を無視してキラーパンサーと再会しながら、最後に炎上しているサラボナを背景に曲が終わる(は?)。

序曲は最初か最後に流すのが定石だし不穏な雰囲気で終わらせるなら使うな(CMじゃねえんだぞ)。

また寒いギャグに使うのは侮辱でしかない。主人公が天空のつるぎを抜こうとするシーンを見たとき、「あれ、これもしかしてつるぎが抜けなくてギャグ調に序曲キャンセルされるやつじゃ...」という思考がすぐ頭に浮かび、そのわずか数十秒の間は拷問を受けてるような羞恥心にも近い感情を持ったことははっきりと覚えている(そして本当にそのような演出だった)。

序曲をキャンセルしていいのは某大魔王だけである。

 

 

他シリーズの曲流しすぎ

 前述したが本映画ではドラクエ5以外の曲が多く使われている。しかも4,6の天空シリーズだけではなく他のナンバリングタイトルから多くの曲を持ってきている。

後述するがゲマ戦の「オルゴ・デミーラ(DQ7)」だったり、エンディングの「この道わが旅(DQ2)」と「そして伝説へ(DQ3)」はこの映画で使う意図がまったくわからない。

「決戦の時(DQ9)」)は「序曲のフレーズ入っててかっこいいからここだけ使お」ぐらいにしか思われてなさそうだし、「勇者の凱旋(DQ11)」は「ブオーン倒して凱旋してるから使お」ぐらいにしか思われてなさそうである(そもそも主人公は勇者ではないが)。

天空シリーズの曲を使うにしても、「馬車のマーチ(DQ4)」は「勇者の故郷(DQ4)」の孤独感との対比があって良さが際立つので、ただ険しい道を冒険してるだけのシーンにはふさわしくない(そもそも馬車がない)。

6はナンバリングタイトルの中でも原作の雰囲気が印象深いため、「敢然と立ち向かう(DQ6)」「精霊の冠(DQ6)」「空飛ぶベッド(DQ6)」「迷いの塔(DQ6)」などはレイドック城の回想シーンやムドー戦がどうしても脳裏に浮かび映像とのミスマッチがひどい。

余談だが、同じく過去シリーズの曲を大量に採用したドラクエ11ではまだ過去作で使われた場面に曲を合わせようとする意図が感じられ、例えばオープニングの「はめつの予感(DQ5)」「カタストロフ(DQ2)」だけ見てもコアな原作ファンにとってはそれだけで興奮できる仕掛けだった。

また11は過去作の集大成ということでいろんなシリーズの曲を聞けるだけで感極まるところがあったのだが、本映画はドラクエ5の映画化を謳い原作ファンを集めた上でこの意味不明な選曲だったため、より一層残念さが際立ってしまった。

 

 

 

「大魔王」が流れない
 ご存知の通りドラクエ5のラスボスは魔王ミルドラースであり、その時流れるのは専用曲「大魔王(DQ5)」である。ミルドラース同様記憶に残らない曲扱いされることも少なくはない曲であるが、ドラクエ音楽好きの中ではファンも多いだろう。

特徴的なのはイントロのティンパニの連打、ティンパニが特徴的な曲と言えばこの曲と「生死を賭けて(DQ11)」「立ちはだかる難敵(DQ4)」あたりだろうか。打楽器の良さが引き立つ曲もすぎやまこういち氏は作ってくれる。

さらに「大魔王」に関してはドラクエ5の不穏さを象徴するME「悪のモチーフ(DQ5)」が随所に使われていて、この曲をバックに魔王を倒してこそドラクエ5はハッピーエンドを迎えることができる(本映画ではそもそも悪のモチーフの陰が薄いが)。

しかし、本映画ではミルドラースが出てこないという斜め上の理由でこの曲は流れず、代わりに「オルゴ・デミーラ(DQ7)」が流れる(ここが一番意味がわからない)。

初見の私はゲマと戦っている最中急にドラクエ7のラスボス戦が流れてきたことにひどく困惑したが、「きっとこの後ミルドラースが出てきて「大魔王」流すためだよな...」などと好意的に解釈しようとした。ご存知の通りそんな期待はあっさりと裏切られることとなった。

 

 

エンディングが「結婚ワルツ」じゃない

 ドラクエ5は親子三代にわたる壮大な人生物語、そのなかでも屈指の人気イベントといえば花嫁選択イベントだろう。ドラクエ5をやったことがあるとなればたとえコアなドラクエオタク同士であっても、「花嫁どっち派?」と挨拶がてら話をすることで会話が続く。

本映画でも花嫁イベントが序盤中盤の盛り上がりどころでかなりの尺をさき、かつ本作の落ちにも繋がる伏線が用意されていて製作陣の中でも重要な位置付けであったことは間違いない(ビアンカの性格については触れない)。

ではどうしてエンディングに「結婚ワルツ(DQ5)」を流さない?

原作では結婚式で一回目が流れ(本映画も同様)、エンディングでもう一度この曲が流れる。魔王を倒し平和になった世界を祝福するように、主人公一家の今後の幸福を願うように、親子三代の物語が「結婚ワルツ」で締められる(最高だ)。

じゃあ一方で本映画では何を流したかというと、「この道わが旅(DQ2)」「序曲のマーチ(DQ5)」「そして伝説へ(DQ3)」の3曲。おい!序曲何回目だよ。他の2つも天空シリーズまったく関係ない!

ゲマ戦後のVR落ちショックのせいでこの辺り記憶が皆無なのだが、ウイルスと名乗るキモい生物に「大人になれ」と言われた主人公が、俺はこの世界を否定したくない的なこと言って、これが「この道わが旅」です!ってこと?アホか。

呆然としたままエンドロールに入り「結婚ワルツ」で終わりかなと思っていると「そして伝説へ」が流れ始め、 この辺りで逆におかしくなって笑ってしまった。「急にロトの剣出してロト感出たから原点の3流したろ!」とか、「人気曲だから流しといてやるぜほら泣けよ!」という製作陣の低俗な思考がひしひしと伝わってきた。

何もかもがミスマッチ、早く帰りたい。

 

 

VRの中のBGMとは

 本映画のキモであり同時に多くの批判を浴びる原因になっているのが、この世界はVRゲームドラゴンクエストの話であり主人公はドラクエ好きのおっさんだったという点。

これ自体全くふさわしくない設定であることには目を瞑るとして、「没入型ゲームにおけるBGMとは?」という純粋な疑問が浮かんだ。

しかし、映像だけ見ても主人公が石化中の物語が上映されたりしているし、奴隷生活やらせるVRゲームとは?という疑問が出てきてしまうので、BGMだってそんなの映画だから仕方ないだろというなんとも面白みのない答えが出てくる(ほんとこのオチがやりたかっただけなんだな...)。

これに関連して、実は序曲が流れたのはもう一回あったことを思い出す。それは主人公(中のおっさん)がサラボナで口笛で口ずさんでいた曲だ。当然序曲がドラクエ世界の流行りの歌などということはないため、ある意味これはVR落ちの伏線だったのかと思う。

となると、このVRゲームで流れる曲は主人公のリクエストした曲の可能性はないだろうか。少年時代をスキップしたり、ロボットを出すというむちゃくちゃな要望が通るのであれば(女の子を消したことは絶対に許されない)、その場の雰囲気とか感情に合わせてBGMとして流れており(主人公の頭の中に浮かんでおり)、我々はそれを聞かされていた。

結局、俺が考えたお前の最強のユア・ストーリー感。

 

 

その他個別楽曲感想

地平の彼方へ(DQ5)」・・・冒頭でSFC音源から映像に合わせてオーケストラ音源にクロスフェードしたのは評価できる。

「不死身の敵に挑む(DQ5)」・・・これが映画館で流れるだけで脳汁がやばい。

「陽だまりの村~村の夕べ(DQ9)」・・・間奏部分だけかなりの長尺で流れた。サントラを聞き直してようやく気づいたが、なぜこんな使い方をしたのか。

 「導かれし者たち(DQ4)」・・・エンディングじゃないのにエンディング感出て違和感やばかった。ここの映像覚えてない。

「敢然と立ち向かう(DQ6)」・・・細い話だが「敢然と立ち向かう(DQ6)」と「ムドーの城へ向かう(DQ6)」はイントロに違いがあり、オーケストラではそれぞれ前半と後半にあたる。本映画では両方使われていた。

「窮地を駆ける(DQ11)」・・・出だしの二小節だけ使われたような?効果音じゃないんだからさ...

「精霊の冠(DQ6)」・・・たいして思い入れのないヘンリーとの別れのシーンで流れる。ミスマッチランキングNo.1!

おわりに

 以上、言いたい放題言ってきたが、不満を述べるだけでは無責任なので、最後に一つBGMに関して代案を述べるとするならば、敢えてゲーム音楽の使われ方に準ずるというのはどうだろうか。

用いるBGMはドラクエ5のみから選曲しボス戦のシーンには「不死身の敵に挑む(DQ5)」、冒険のシーンには「地平の彼方へ(DQ5)」を必ず流す。ゲーム音楽としては何回使おうが関係ないわけだし、オーケストラ版ならば楽器の編成が違うところを抜き出したりすればある程度パターンも確保できる。

映画音楽としては総監督の好きな”誰もやってないネタ”だしドラクエでやることには大いに意味があるだろう。

 

 

 この映画を見たあとすぐ、第33回ファミリークラシックコンサート「ドラゴンクエストの世界」でドラクエ3の公演を聴いてきた。

やはりゲーム音楽は非常にいいもので、初めから終わりまで聴けば1つの作品を再プレイしたようにストーリーやプレイ当時の記憶が思い出され、それだけで心が豊かになるのを感じた。

特にドラクエはオーケストラ版のCDが出て、毎月のようにレベルの高い楽団によるオーケストラコンサートが開催されており、生演奏の素晴らしさも体感できる。

子供の頃、PS2版のドラクエ5リメイクでBGMがN響のオーケストラになり戦闘曲やフィールド曲の迫力に圧倒された経験を今でも覚えていて、オーケストラには特別な思い入れがある。

この映画でもオーケストラのドラクエ音楽を映画館で聴くという貴重な体験ができると思ったが(実際映像と相まって素晴らしい点もあったのだが)、多くのファンにとって楽しい思い出にはならなかったのは残念である。 

 

 思いの外長くなってしまったが、記事を書きながら冷静になって思うのは、今回の件はドラクエ音楽とオーケストラの素晴らしさを再認識するいい機会になったと感じている。ストーリーや設定、演出の欠陥に比べれば、「映像と音楽だけは(比較的)よかった!」のかもしれない。

 

 

 

 (この記事を書く際に、使われた楽曲リストを作ろうと本映画をもう一度見ようと考えたが、あまりにも足が重く結局見ることはできかった。)